メモと書き文字について

 以前から、自分のメモの分散に頭を悩ませてきた。メモが載る媒体の分散もあれば、筆記道具や筆記手段(PCを含む)の拡散も同等に語られる問題である。というのは、紙 = ボールペン(えんぴつ)、PC = キーボード入力 ということになるのだが、キーボード入力の優位性と身体性についてはこれまで、あまり分析されてこなかったように思う。ボールペンなどの筆記用具に比較してキーボード入力は、そのスピードにおいて、ときに従前の筆記用具をしのぐことがある。また、PC上における編集行為が非常に効率的である環境を備えているが故に、この環境が情報化つまりエクリチュール(文章を綴る)に逆方向のベクトルをもって大きな影響を与えてるのではないかということ・・・。前にたしか中谷彰宏だったか、いっていたが、PCの正しい使い方として、PCで文を作成し、それを印刷したものを見ながら手紙を手書きする。PCで編集性を最大限に活用しながら、後にその情報を手書きにて紙に転記すること。これが情報化のあるべきカタチ(?)なのかも。
 手書き文字についても重要な論点がある。メモは基本的に手書きである。少し長い文(200字程度以上)はPCでワープロ。200字以上になると手が疲れてくるという点もあれば、文の編集性・構成が重要になってくる点もある。手書きのいいところは、「印刷」が不要であることと、時間を置いた後のアクセシビリティがいいことだ。逆に編集性や検索性に劣る。つまり記載後の情報活用面で問題がある。PCでは、情報における入力、ならびに情報展開の敷居の低さ(=なんでもいちおう思いつくままに書き込める、そうした思いでいたら多様な内容の展開が可能になる、など)、また検索性、編集性に優れる。他方、アクセシビリティが弱い。両方のメリットを最大限に引き出すならば、PCで情報を綴り、手書きで紙に残す(あるいは紙に印刷して保管する)あたりに落ち着くわけである。しかし、なんのことはない、通常これは仕事上などで最もよく取られている手段でもある。(最近は紙にプリントしてファイリングする代わりにPDF化してフォルダ保管しておいているが、やっていることは同じである)。
 PC情報を手書き転記するときに起きる心理機制は、集約化への意図である。手書きという作業の制約あるいは紙スペースが、情報の精錬化を起動する。