思考のコントロールの本質というのは、いったい何なんだろう。

最近、自分の「思考そのもの」というものは本当に自分自身で制御可能なものなのか?という疑問に答えられなくなっている。というのも、思考というものが自分の頭に自立的に発生するものだとしたら、それを果たして自らコントロールすることなどできなんではないか、というように感じるからだ。

思考そのものはコントロールすることができない。つまり、コントロールしようと思っていても、その先に思考が存在してしまっている、というわけだ。そして、発生してしまったものはもうしかたがない。自分ではどうしようもない。

では、このやっかいな「思考」はどうしたらいいのか。確かに思考は直接タッチできるものではない。そうならば、思考を間接的にタッチすればOKなのでは?と考えたわけだ。つまり、思考が制約を受けているものをコントロール対象としてとらえればいいわけだ。そう、それは脳の中の意識がどういう制約を受けているかを探ることになろうか。
【参考】養老猛 「唯脳論
行動と感情を何とかすれば、思考は「間接的に」制御することができるはずだ。

実はそれ以外に思考が一番制約を受けているものがある。それは「記憶」だ。思考の本質は記憶だとしたら、思考のコントロールとは実は記憶のコントロールなのだ、ということができる。実際に、記憶自体は脳の中のメモリだ。そのメモリをどうするか。これはコントロール可能なものだ。メモリを効果的に管理すれば、思考は効率的にコントロールできる。コンピュータと同じ原理で扱うことができる。

おぼえる、そして忘れる。(記憶を)検索する。そして再生する。こうしたことが効率的に自分の制御下で行えることならば、それはとりもなおさず自分の思考におおきく影響を与えるわけだ。

こうしたことから、記憶、感情、そして行動をコントロールすることが「思考」をコントロールすることに他ならないのだ。