販売子会社の監査

 今日は、早朝から福井は敦賀に出張。販売子会社の監査に出かけてきました。3月決算会社の監査で、この会社の監査役であるので期末の監査とあいなりました。最近は「不正」の観点が重要視されてきてる関係で、特に現預金管理についてどうかをチェック。あくまで不正調査ではないので、ポイントは不正に対してどのような統制が実施されているのか、でありましょう。
 本音からいいますと結構、不正の観点の監査はやりにくいです。ほんのこの間まで会社の経営者や従業員を信頼しています・・・という顔をしていて、今度は社員の不正に対してどのような管理をしていますか?なんていうのは、どうも相手を背中からバッサリ切り下ろすような感じで、いたたまれない気持ちになったり。監査役としては経営者に対する監督という立ち位置から、その業務執行の適法性、有効性を問うのだと理解していますが、経営者自身の不正についても、これは目を光らせることになります。でも、これまた困難なところです。まず、経営者が会社内で不正に対してどのような対策を実施しているか、というところから切り込んでいくのがいいんでしょうね。悩みながら取り組んでいます。

ISACAの新しいプロフェッショナル

 先日、ISACAからレターが届いていて、またCISA受験の勧誘を依頼する内容なんかな?と思いきや、なんと新しい資格の案内でした。CRISC(なんと発音するのかよくわからない、クリスク・・・かな?)。既にグランドファザリングの案内もされていて、トライされる方々もいらっしゃるんだろうなあ、と思いながらレターを眺めていました。例によって登録料をはじめとして、維持費がかかりそうな感じです。問題はこの資格が目指すところでしょうね。案内によると、CISAが監査、CISMがセキュリティマネジメント、CGEITがITガバナンスであるとすると、CRISCはITリスクの評価と対応を主体にした取り組みができる専門家といったところでしょうか?どちらかというと執行側の資格であるようですね。

できる!無根拠に思えますか。

 できる、と思うことが最初。そこが分岐点。私は高校の頃、1年生のときに毎月行われる学力テストの席次で最初のころはそれこそ、半分より少し後ろという程度だったのです。しかし、2回目のテストの結果リストが張り出されていた中に、幼馴染の友人の名前が上位にリストされているのを見て、「あれ、もしかして、自分もいける程度なんじゃないか」と思ったのがすべてのきっかけだったといってもいいんです。つまり自分にも「できそうだ」と思うこと。これなのだ。勉強を開始した私は、次のテストの席次では既に上位に食い込んでいた・・・。それから勉強を継続したら、どんどん結果が出て・・・といいサイクルが廻り始めたのです。振り返ってみるとやはり、最初に「できそうだ」という「見通し」(それが実際かどうかは別にして・・・)が持てたかどうかが分かれ道だったようです。

 なぜ、このようなことを私は、今メモしているのだろう・・・。はじめは、とても及びもしないね・・・と思っていたレベルの到達点について、それが実現可能Iなエリアに存在する・・、と見えるかどうかで、その後のパフォーマンスにも影響を与えながらパスが形成されていくメカニズムがやはりあるのではないか。そう考えたから。

 できる!無根拠に思えるか、これは能力のひとつなんだ。

共存の思想

 共存・・・それは、他人の喜びを自分の喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとすること。以前何かの本で読んだのか、あるいは家人から聞いたのか忘れましたが、家族が病気になったり怪我をしたりしたとき、それは多分自分の身代わりになってくれているのだという思いをすれば、やさしくなれる、という考え方を知りました。
 具体的には、自分が被っていたかもしれない災厄をかわりに背負ってくれていると見ることで、より一層強くなる。より広く考えれば「他人の不幸は蜜の味」とはよくいったものですが、それとは正反対の見方なんですね・・・。他人の不幸はまさに自分の不幸「だったかも」しれない・・・と考える。しかしながら、そうしたらあまりにも思いが辛くなるし、これは身内の範囲にとどめておいたほうが精神衛生上の保全につながるかもしれないですね。

 また幸福についても同様のスタンスが取れると思います。つまり自分以外の、例えば身内の喜び、あるいはもっと広げて他人のラッキーや喜びや能力の発現を素直に自分の喜びとして捉えることにもなる・・・。その喜びは自分の成果でもあった。そこには嫉みの視点がまったくなく、心の芯から他人を寿ぐ。こちらは身内とはいわず、よりよく拡大解釈していったほうが、ポジティブな方向に踏み出すエンジンになる発想につながるでしょうね。自分の幸福が他の場所で実現化していると思う結果、それを口惜しいというのか、その幸福も自分のこととして喜んで受け入れていくのかの違いは大きい・・・。共存の思想の根本は二人の間で喜びは倍増し、悲しみは半減することにあると考えます。
 このように、そうした発想を延長していくと、今度は自分におきた幸福や不幸はどう解釈可能です。多分、これも自分のみの殻の内側で起きていることでなく、(本来)誰かのものを頂いたり、身代わりになっていたり・・・という「交換」の文脈で理解されることになるでしょうか。

読書と自己投資

 読書ノウハウ本がよく出ています。売れているんでしょうね。自分も本をこれまで結構読んできたほうだと思うのですが、内容をほとんど忘れてしまっています・・・。これでは読書に費やした時間とコストにあわない・・・と反省?していたら、今日の内田樹氏のブログにこうありました。(抜きがき)
・・・
朝方Book3が届いたのだけれど、それまでの内容を忘れているので、もう一度最初から読みなおしているのである。
細部はもとより、筋もほとんど忘れていた。
それで「本を読んだ」と言えるのであろうか(言えない)。
おそらくお酒をごくごく飲みながら読んだせいであろう。
映画もそうだけど、見ているときは楽しいのだけれど、あとで思い出そうとしても何も覚えていない。
でも、その代わり、もう一度見ても読んでもわくわくどきどきできる。
人生、悪いことばかりではないね。
というわけで、『1Q84』を二度楽しんでいます。
・・・
http://blog.tatsuru.com/2010/04/18_0717.php

ご本人は本の内容を「忘れる」ことにたいして気にも止めていないご様子ですね・・・。さもありなん、読書した内容を本ごとにすべて記憶していることなど最初から不可能なことだし、本のエッセンスも1冊1冊、すべてフォローできるわけではないですよね・・・。大体の文脈的なことを思い出せれば、それでたいしたものであると割り切ることなのかもしれません。また忘れているつもりでも、多分本人にとって重要であることは、深い部分で深々と降る雪のごとく、積もっていくものもあろう、ということでしょう。

模倣と学習プロセス

 模倣と学習プロセスについて考えた。着想は、こうだ。最近カタログ雑誌でインテリアの特集とかをみていて感じた。それを実現したいと思うなら、そのとおりのモノを取り揃えてしまえばいいのだ。デザインなどで悩む必要は全くない。そのとおりにまねてしまえばいいだけのことである。写真にあるように、写真を雑誌から切り取り、同じレイアウトで同じような家具を取り揃える。それだけで写真のようなインテリアが再現できる。最近見ているガーデニングもしかり。キレイな配置や植栽をそのまま真似てしまえばいいのだ。レイアウトや設計に頭を悩ませる必要なく、写真のように美しい庭になるはずである・・・。ところが、この「模倣」という行為に、これまで潜在的に遠慮がちだったのは何かそこに自分のオリジナリティを加味したいという欲望があったんだろうと思う。自分らしさ・・・のようなものか。それを一滴加えたいがために時間を浪費して頭を悩ませていたのではないのだろうか。設計やデザインは時間を節約するために専門家の知を活用すればいいのだ。それで誰もが同じインテリアになってしまうものでない。参考にする写真は雑誌に数え切れないくらいあるのだ。ブログのテンプレートからデザインを選び、多少のカスタマイズをするようなものである。この行為自体は「編集」に近い。
 さて、学習プロセスのほうだが実はこの「模倣」という作業は簡単でない。猿真似とは外見のみを真似るあさはかな行為をいうことが多いが、「再現性」を確保するレベルまでに至るには相当の習熟が必要になる。模倣を真剣に行うことは、その行為で多くの暗黙知を含めた吸収を行うことになる。武道の「型」の修練もこの点に通じるのだ。